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| 加藤茶さん(ドリフターズ) |
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2006年に大動脈解離を発症しましたが、人工血管置換手術を行い今も元気にテレビに出演されています。テレビでその時の体験を話されていました。 地方での撮影が終わり夜スタッフとお酒を飲み、その後一人でホテルに戻った時に今までにない痛みが胸に走ったそうです。痛みは胃からお腹まで生き物の様に移動したそうです。加藤茶さんは自分が痛みに強いという自信があり朝まで12時間誰にも連絡せず我慢したそうです。翌朝東京に戻り病院へ直行し手術を行ったそうです。 主治医によるとこれはほとんど奇跡に近く、不幸中の幸いに解離した後破裂までいかなかったのではないかとおっしゃっていました。 加藤茶さんは、銀座で3、4件飲み屋をはしごしウィスキーを相当量飲む生活を40年続けていたそうです。その後、狭心症、動脈硬化症で通院していましたが、1年半後、ついに大動脈解離が発症してしまったそうです。 今では45歳年下の奥様と魚中心の食事を楽しみ、ジムで毎日40分のウォーキングをしているそうです。 加藤茶さんのコメント「ぼくの様な生活をしていると必ずこういう病気になります。それと塩分過剰に気をつけましょう。薄味でも美味しく食べられます。」 |
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| 川崎大動脈センター記事転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 大木凡人さん(司会者) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2024年9月現在、健在 |
タレントの大木凡人(69)が今年1月に難病の「大動脈解離」を発症していたことが18日、分かった。スポニチ本紙の取材に応じ、大手術を経て奇跡的に生還したことを明かした。 胸が苦しくなることが1週間ほど続いた後、今年1月19日に症状が急変。トイレから出ようとしたところ、バリバリバリと張り裂けそうなすさまじい痛みが胸全体を覆ったという。「学生時代は空手をやっていたので、痛いことには慣れていたつもりだが、こんな凄いのは初めてだった」と振り返った。 痛みは気絶しそうになるほど激しく、それを紛らわせるために「なんだ!クソ!コノヤロー!」などと大声で絶叫しながら119番に電話。すぐに東京医療センターに搬送された。 すぐに集中治療室で検査を受け、心臓のすぐ左にある大動脈が約60センチも破れている大動脈解離と判明。それに伴う心房細動も発症していた。同21日に、左腕と右太腿の付け根にある動脈を緊急手術した。 親族には「左腕を付け根から切らないといけないかも」と病院側から説明があったというが、手術は無事成功した。入院生活は23日間に及び「さすがに気がおかしくなりそうでした」と話した。 大動脈解離は、病院に着く前に20%以上が亡くなると言われる難病。「ほとんどの人があまりの痛みに気を失っちゃうんですって。お医者さんにも言われたんですけど、痛みに耐える体力が助かった要因みたい。ほんと、両親に感謝です」と語った。大木は、知人に同じ難病を患った故石原裕次郎さんの主治医がいる。「いろいろと情報をいただいたのも大きかった」と話した。 今月22日に再検査の結果が判明する。病気になってから10キロやせたといい、「やっぱり不安ですよ」と話しながらも、今は担当医から許された範囲内でお酒を少しだけ楽しんで、生きていることを実感しているという。 |
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| 堀内恒夫(元巨人監督)さんご子息 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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『堀内恒夫氏 49歳息子が死去』2024年 4年前に「大動脈解離」で倒れ闘病…「彼がどれだけ頑張ってきてくれたか」 元巨人監督の堀内恒夫さん(76)が1日、自身のブログを更新。息子との悲しい別れを報告した。 堀内氏は「息子のこと」のタイトルで1週間ぶりにブログを更新し「しばらくブログをお休みしまして皆様にはご心配をおかけしております 実は2024年8月26日に息子が亡くなりました。49歳でした」とつづった。 さらに「4年前に突然大動脈解離で倒れた時に一度覚悟はしました。しかし、そこから彼は私たちに奇跡を見せてくれ 一緒に散歩をしたり食事をしたり 再び家族との楽しい時間を過ごすこともできました。今となってはその時間が私の中で救いになっているような気がしています」と続けた。 「しばらくして彼の体のあちらこちらから悲鳴が聞こえるようになりました。と同時に、世間ではコロナ禍となり 治療も然り 病院で会える時間も人数も厳しく制限されるようになりました。息子のお嫁さんも孫たちもとても辛かったと思います」と、振り返った。 また「大切な家族を遺し 親父よりも先に逝ってしまうなんて『順番が違うだろう』と悔しいというか消化しきれない思いでいましたが 久しぶりに彼と対面した時に感じた思い 手術やリハビリを繰り返しこの4年間彼がどれだけ頑張ってきてくれたか その月日と姿を思い返していたらこれ以上、言えることは何もありません」と親としての思いも吐露。 最後に「今回はみんなで相談して家族葬で見送ることにしました。そのため日頃よりお世話になっている皆さまへ私からのご連絡は控えさせていただきました。メディアに関わる仕事でありながら私の気持ちを尊重してソッと寄り添ってくださった皆さまに心より感謝申し上げます。おかげさまで 彼は、たくさんの美しい花々に囲まれて旅立ちました。そして、これまで彼と親しくしてくださった皆さまへこの場をお借りして心よりお礼申し上げます。まだ成人していない子どももおりますので これからも見守っていただけましたら幸いです どうぞ、よろしくお願い申し上げます。そして、ありがとうございました」と感謝の言葉とつづった。 |
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| 大瀧詠一さん | 2013年12月 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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歌手で音楽プロデューサーの大滝詠一さん(65=本名大滝栄一)が30日午後5時半ごろ、東京都瑞穂町の自宅で倒れ、搬送先の病院で死亡したことが31日、警視庁などへの取材で分かった。 福生署などによると、大滝さんは当時家族と一緒で、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と話しているという。119番通報で救急搬送する際には既に心肺停止状態だった。 所属レコード会社によると、大滝さんは30日午後7時ごろ、自宅で夕食をとった後、デザートとしてリンゴを食べている最中に倒れたという。その後病院に搬送されたが、解離性動脈瘤(りゅう)のため亡くなったという。 大滝さんのオフィシャルサイトによると、細野晴臣や松本隆らと伝説のバンド「はっぴいえんど」を結成して活躍。1973年に解散後は自身のレーベルを創設し「君は天然色」「恋するカレン」などを発表した。 他の歌手への楽曲提供も多く、代表作に松田聖子の「風立ちぬ」、森進一の「冬のリヴィエラ」、小林旭の「熱き心に」など。 2014-03-21 18:00ORICON NEWS 大瀧詠一さん、死去直前に妻に感謝の言葉 “最期の日”も仕事していた 12月30日に死去した元ロックバンド・はっぴいえんどでミュージシャンの大瀧詠一さん(享年65)の「お別れの会」が21日(2014年3月)、東京・SME乃木坂ビルでしめやかに営まれ、元メンバーら250人が参列した。遺族代表あいさつでは、妻・静子さんが大瀧さんの最後の日を噛みしめるように回顧した。 静子さんは、大滝さんが亡くなる一週間前に「風邪を引いたと言って、二日間ほど寝込んでいたが、風邪の症状は全くありませんでした。足腰に力が入らず、床を這って移動していると言っていた。『俺、脳が疲れたよ』とも言っていました」と紹介。 2、3日後には日常の生活に戻り、食事も普通に摂れるようになったようだが、亡くなった当日は「ひと仕事終え、夕方5時過ぎにスタジオから自宅に戻り、私と日常会話をしていました」と当日も仕事をしていたことを明かした。 それでも、最期の瞬間は突然訪れたといい、自宅で何気ない会話をしたあとに「夕食前だからリンゴでも食べるかなと思い、むいている途中に突然、『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われた」といい、「びっくりして主人の方を見ますと、椅子にもたれ掛かり、ぐったりとしていました。そのときはもう、顔面にチアノーゼが来ていました」と状態が急変していたという。 その後、床に寝かせて救急車を依頼し、到着まで心臓マッサージをしたが、「息を吹き返すようなことはありませんでした」と静かに語った。 静子さんは「当日、会話をしたのが20分くらいだったと思う。今では、会話のすべてが遺言になってしまった」と声を振り絞り、「本来ならば12月末は、大好きな落語を聞いて、スタジオの整理や片付けをしている姿があるのですが、昨年末はありませんでした」と寂しさをにじませていた。 |
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| 笑福亭笑瓶さん | 2015年12月手術~2023年2月亡くなる | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2015年12月29日、千葉県内のゴルフ場でプレー中に胸の痛みを訴え、ドクターヘリで県内の病院に搬送され入院。2016年1月14日に退院し、1月19日に『大阪ほんわかテレビ』の収録で仕事復帰した。2月25日放送の『ダウンタウンDX』の収録で、病名が急性大動脈解離だったことを公表した。これ以降笑瓶は仕事をセーブし、たばこを控えてウォーキングするなど健康に気を配っていたが、「体調があまり良くない」と周囲に漏らしていた。 2023年2月21日午前、自宅で倒れ、病院に救急搬送された。再び急性大動脈解離の診断を受け、ECMOを装着される形で治療していたが、翌22日午前、家族と師の鶴瓶に看取られ死去した。66歳没。 師匠である鶴瓶は笑瓶の死去当日に事務所を通じ「師弟関係を結んだのは僕が29歳で笑瓶が24歳。師弟関係というよりも、信頼のおける親友のようでした。一番僕のそばにいて、全ての事に気のつく男ですごく彼がいて助かりました。僕より先に逝くとは思いませんでした。 すごくええ顔して旅立って行きました。 最期に顔見れてよかったです。お疲れ様でした。」と追悼のコメントを出した。その後、鶴瓶は同月25日にトークイベントの会場入りの前にメディアの取材に応じ、当日は笑瓶の危篤の報を聞いて病院に駆け付け、意識のない状態であったが対面を果たしたことを明かし、愛弟子の最期の様子を語った。また、BS-TBS『噂の!東京マガジン』で共演していた森本毅郎によれば「倒れたときに、まだ意識があるときに、苦しかったと思うけれども“前のときよりも、今回ちょっと場所が違う”と。“今回はちょっと危ないかもしれない”ってご本人が言ったっていう話を聞いたんですよ。」と関係者からの話を明かした。 翌日の2月26日放送の『噂の!東京マガジン』では、予定を急遽変更し追悼企画「笑瓶さん!ありがとう笑顔と優しさの全記録」を放送。集まれるレギュラーメンバーだけでもと声が掛かり、全員集まった。放送では、突然空席になってしまった笑瓶の席に涙し、在りし日のVTRを観ながら思い出をメンバーらが語った。 葬儀は妻を喪主として同月27日に築地本願寺第二伝道会館で執り行われ、通夜・告別式には師匠の鶴瓶や森本毅郎、小島奈津子、井崎脩五郎、清水国明、山口良一、風見しんご、深沢邦之ら『噂の!東京マガジン』共演者や山田邦子、西川きよし、せんだみつお、爆笑問題(太田光・田中裕二)、松村邦洋、松本明子、徳光和夫、モト冬樹らが参列、弔辞は鶴瓶が読んだ。 |
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| 武川雅寛さん(音楽家) | 2015年6月手術 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2015年6月のある朝。武川さんがいつものように自宅で妻と朝食をとろうとしていた時のことです。「あれ?貧血かな?」醤油差しを手に取った時にふと覚えた違和感。痛いというより、ちょっと苦しい、貧血のような感じでした。 この日は札幌でソロツアーの公演があり、2時間後には飛行機で現地に向かう予定となっていました。休むわけにはいきません。「こんな体調だと飛行機に乗るのが大変だな」と思いました。しかし、胸の苦しさはみるみるうちに強くなっていきます。ついに、立つことも出来なくなっていました。 「これはちょっとだめだ。救急車を呼んでくれ」妻に救急車を呼んでもらい、15分後には病院に到着できました。このころ、武川さんの意識ははっきりしていて、医師に症状を説明しています。 「もしかしたら急性大動脈解離かもしれない」 医師は武川さんにそう告げると、すぐに手術の手配を始めました。地元の大きな総合病院でしたが、すでに別の手術が入っている場合など、急な手術に対応できるとは限りません。不安を感じつつ、医師のことばを待ちました。「この病院で手術ができます」――あぁ、よかった。「それでは、先生、お願いします」 その言葉を最後に、武川さんは意識を失いました。武川さんの意識がはっきりとするのは、それから28日後のことでした。 武川さんに下された診断は、当初の医師の見立て通り「急性大動脈解離」でした。 「大動脈」は心臓から送り出された血液が最初に通る太い血管です。 上行大動脈という部分に解離が及ぶ場合は、1時間に1%ずつ死亡率が上昇するとされています。武川さんは、まさにこのケースでした。 緊急手術は午前11時に始まり、終わったのは翌日の午前1時でした。 この間、というより手術が決まってから28日後まで、武川さん自身に記憶らしい記憶はありません。ただ、家族は14時間におよぶ手術の間、待合室で祈るように待ち続けました。 手術は無事に終わりました。 しかし、麻酔から覚めても武川さんの意識はもうろうとしていました。 夢の中をさまようような28日間。 時折、目が覚めては、頭の中に浮かんだことをひたすら話していたようでしたが、武川さん本人はこの間のことをほとんど覚えていません。思い出すのは、今から思うと不思議な夢ばかり。ようやく意識がはっきりしてきたころには、1か月近くの時が経っていました。緊急手術から、意識がはっきりとしなかった28日間を経て、武川さんは一命を取り留めました。 退院は手術からおよそ4か月後でした。 この間、リハビリを頑張りました。心臓のリハビリということで、病院の周りをただひたすら歩きました。発声のリハビリも真剣に取り組みましたが、声のかすれは少しましになったものの、元通りにはなりませんでした。ただ、トランペットの演奏にはそれほど影響を感じませんでした。それまで特に意識すること無く、歌うようなつもりで演奏していたトランペットでしたが、声を出すことと息を吐くことは違うことにも気づきました。そして退院。 しばらくの間、活動を休止していたムーンライダーズも再び活動が始まります。2016年に行われた活動再開後のステージには当然、武川さんの姿もありました。 びっしりと書き込まれた1冊のノート。 手術が終わった武川さんが、はっきりと意識を取り戻すまでの28日間に見た夢を記録したノートです。そこに描かれているのは、人工呼吸器をつけた横顔や、猫にも車にも見える不思議な絵。武川さんは、このノートをもとに制作したソロアルバムを2018年に発表しました。タイトルは、「a journey of 28days」。一命を取りとめてから、意識を取り戻すまでの28日間の旅です。 https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2023/04/story/0417aorticdissection/ |
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| 鹿沼絵里さん (故古尾谷雅人さんの妻.元女優) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鹿沼絵里さん、大動脈解離で一命を取り留めていた 2003年に自殺した俳優・古尾谷雅人さんの妻で元女優の鹿沼絵里さん(65)が15日放送のTBS系「爆報THEフライデー」に出演し、今年7月に急性大動脈解離を発症して身体障害者手帳1級を支給されていることを明かした。 鹿沼さんは「大動脈解離という病気になりまして、身体(障害)者手帳の1級をいただいて、年内は安静にしてくださいと言われている」と打ち明けた。 娘夫婦と晩酌中に舌をかんだ瞬間、心臓に激痛が走って倒れ、救急搬送されたという。体には手術で10センチの人工血管、人工弁が入れられたといい、手術跡は30センチの長さに及んでいた。 古尾谷さんのDVと自殺、最大3億円にもふくれあがった借金と、数々の不幸に見舞われてきた鹿沼さんは、42歳の時、心筋梗塞にも襲われたといい、「それ(数々の不幸)で心臓を悪くしたんじゃないかと思うぐらい」と語っていた。 |
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| デイリースポーツ転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| もんたよしのりさん(歌手) | 2023年12月 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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もんたよしのりさんは神戸市出身で、1971年にソロ歌手としてデビューした後、1980年に結成したバンド「もんた&ブラザーズ」で発表した「ダンシング・オールナイト」が若者たちから熱狂的な支持を集めて爆発的なヒットとなり、この年の紅白歌合戦にも出場しました。 1983年にはもんたさんが作詞作曲を手がけた西城秀樹さんの「ギャランドゥ」がヒットしたほか、映画や舞台にも出演するなど、幅広く活躍しました。 先月26日にはNHKの音楽番組「うたコン」に生出演し、衰えることのないハスキーボイスで「ダンシング・オールナイト」を披露していました。 所属事務所の発表によりますと、もんたさんは今月18日、大動脈解離のため72歳で亡くなったということです。 著名人から悼む声 もんたよしのりさんの訃報を受け、旧ツイッターの「X」には著名人から死を悼む声が寄せられています。 歌手の研ナオコさんは「息子が生まれた時、散歩中お会いしていろんなお話をしたことを覚えています。何を言っていいかわからない。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と投稿しています。 歌手のダイアモンド☆ユカイさんは「たくさんの夢をありがとう。ご冥福をお祈りします」などとしています。 ---2023年12月 NHK記事転載 |
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| 立松和平さん | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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小説「遠雷」などで知られ、環境保護活動やテレビ番組での実直な語り口でも親しまれた作家の立松和平(本名横松和夫)さんが8日午後5時37分、多臓器不全(解離性動脈瘤)のため東京都内の病院で死去した。62歳。宇都宮市出身。葬儀は近親者のみで済ませ、後日、しのぶ会を開く。喪主は妻横松美千絵さん。 早大在学中から小説を評価され、卒業後は宇都宮市役所勤務などを経て文筆業に専念。1980年、都市化する農村の若者を描いた「遠雷」で野間文芸新人賞を受け、脚光を浴びた。後年は仏教への関心を深め、「道元禅師」で泉鏡花文学賞と親鸞賞を受賞した。 小説のほかにも世界各地を旅行して著作を発表。パリ・ダカールラリーに参加、テレビ番組のリポーターを務めたり、環境問題に積極的に発言したりするなど行動派の作家として多くの分野で活躍した。 93年には雑誌連載中の小説「光の雨」の一部が、元連合赤軍幹部の坂口弘死刑囚の著書と酷似していると指摘され、「安易な形で引用してしまった」と謝罪。後に全面的に改稿して発表し、映画化もされた。 ほかの作品に「卵洗い」「毒―風聞・田中正造」、歌舞伎脚本「道元の月」など。 1月中旬に体調を崩し、入院していた。 |
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| 2010年2月9日 日テレニュース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 司馬遼太郎さん | 1996年2月12日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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一生のうちに完成できる志など、ちっぽけなものにすぎない 「目的への道中で死ぬべきだ。」 司馬遼太郎著『司馬遼太郎全集 第四巻』「竜馬がゆく 二」(文藝春秋)より たんなる一小説家たることを超え、「司馬史観」と言われる歴史への独自の洞察によっても大きな影響を与えてきた司馬遼太郎ですが、なんと言っても最大の魅力は、彼の描く人物像にあります。 個人として悩みを抱えつつも歴史の大局に立ち向かっていく人間の生きざまこそが、読者の心を掴んできました。 たとえば『坂の上の雲』がなければ、秋山好古(あきやまよしふる)、真之(さねゆき)兄弟について知る人は極めて少なかったことでしょう。 歴史学ではさほど重視されず、教科書から消えるかもしれない坂本竜馬の人気を不動のものとしたのも、司馬の『竜馬がゆく』でした。 その中で「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は、自然現象だから、これを計算に入れてはいけない」と語る竜馬はまさにそのようにして、道半ばでたおれました。 司馬自身は「五十年」をはるかに超えて生きましたが、『街道をゆく』という50歳頃から書き継いでいたエッセイの連載中、取材後に吐血してそのまま腹部大動脈瘤破裂のため死去しました。まさしく目的への道中で亡くなったと言えるでしょう。 ----ダイヤモンドオンラインより転載 |
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| 塩屋俊さん | 2013年6月5日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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映画監督、俳優の塩屋俊さん(しおや・とし、本名・智章=のりあき)が5日、急性大動脈解離のため仙台市の病院で死去した。享年56歳。葬儀、告別式は近親者のみの密葬とし、後日お別れの会を行う。 1956年、大分県出身。80年に俳優としてデビュー、映画「釣りバカ日誌」シリーズなどに出演するほか映画監督としても活動し、「種まく旅人~みのりの茶~」などを手がけた。94年には「塩屋俊アクターズクリニック」を設立。後進の育成にも力を入れていた。 所属事務所によると、塩屋さんは東日本大震災の被災地となった福島・相馬市の医療現場で奮闘する医師らを描いた舞台「HIKOBAE」の上演のため、5日に岩手・盛岡から仙台入り。開演前に楽屋で打ち合わせをしていたところ、「息が苦しい」などと体調の不良を訴え 、その後意識不明となり搬送された病院で息を引き取ったという。 舞台製作プラス---より転載 |
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| 中嶋しゅうさん | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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女優の鷲尾真知子(68)が15日放送のテレビ朝日系「徹子の部屋」(月~金曜・正午)に出演。昨年7月、舞台中に急性大動脈解離で急逝した夫の俳優・中嶋しゅうさん(享年69)についてテレビで初めて語った。 中嶋さんは舞台「アザー・デザート・シティーズ」出演中に舞台から転落し、救急搬送先の病院で死亡が確認された。舞台上で「急性大動脈解離」を発症していたことが死因と判明。自身も舞台稽古中だった鷲尾はマネジャーからの連絡で訃報を知ったという。 鷲尾は「ただただ戻って来て欲しいという一心で、手を握って大声で彼の名前を呼んだんですけれども…返事ないままに逝ってしまいました」と涙。病気の予兆については「全然なかったんです。年齢的にとてもたくさんお仕事をさせて頂いていたのでハードだったんですけれども」と語った。 夫の死の翌日に舞台の初日を迎えた鷲尾。「本当に記憶が飛んでる部分と、やらなければいけない、50年近く役者という仕事をしてきたさがというか、ご迷惑をかけてはいけないということでやった」と回顧。終演後、楽屋に入ってきた佐藤B作の膝で初めて泣いたと明かした。 「2人で生きていたときの自分にはもう戻れないなと思うんですけども、最近思うのは私が思う以上に彼は私を1人にしたことを『ごめん』て言ってくれてるような気がして」と鷲尾。司会の黒柳徹子から夫の好きだった部分を聞かれると「全部です」と話していた。 |
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| ------スポーツ報知より転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 青木淳也さん | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 2016年3月手術~2024年現在、健在 |
今月22日に「A型急性大動脈解離」のため都内病院にて緊急手術を受けた、お笑いコンビ・ブルーリバーの青木淳也(34)が、手術後1週間で意識が戻ったことが明らかになった。29日、相方の川原豪介がツイッターで発表した。 青木は22日午後7時から18時間に及ぶ手術を受け、無事に成功したが、意識が戻っていなかった。川原はこの日のツイッターで「手術後1週間きつかったと思いますが、応援してくれるみなさんの気持ちが伝わったのだと思います。まだ会話したりはできない状況ですがこちらの問いかけにうなずいたり身体を動かしたりとはっきり反応しています」と報告。 続けて「まだICUなので油断はできないですがこれからどんどん回復に向かっていくと思います。皆様、たくさんの応援本当にありがとうございます!!」と相方へエールを送ってくれた人たちに感謝した。 回復までは1ヶ月以上かかる見込みとなっており、青木が全快するまでは、相方の川原豪介が一人で活動をする。 ブルーリバーは高校の同級生だった福岡出身の青木と川原によって2007年に結成。ともに身長180センチ以上・体重110キロの巨体コンビとして、日本テレビ系『PON!』のレポーターなどで活躍し、福岡で開催した単独ライブでは1800人以上を動員している。 |
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| ----2016-03-29 12:52ORICON NEWSより転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 三波伸介さん | 1982年12月8日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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『三波伸介の凸凹大学校』収録翌日の1982年12月8日15時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た妻の和子と付き人の波連太郎が発見。救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・心停止の意識不明状態で、解離性大動脈瘤により、意識は戻らないまま急逝した。52歳没。 肥満体であったことと、多忙のため多い日でも3〜5時間しか睡眠を取れず、タバコは一日最低でも3箱を吸っていた。亡くなる2ヵ月前にあった名古屋市の中日劇場での座長公演の際には、朝食は食べず昼食は味噌煮込みうどん、夕食はホテルで300グラムのビーフステーキという生活を、1ヵ月の公演中毎日続けたという。これについて三波のマネージャーは「健康のために嫌いなものを食べるのもひとつの生き方。でも、好きなものを毎日食べてあの世に行くのもひとつの生き方」と述べている。その一方、酒は下戸で一滴も飲まなかった。ビートたけしは三波の早世について、若い頃ヒロポンを注射していたためではないかと指摘している。 多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の訃報を受け駆けつけた盟友の伊東は、対面で開口一番「こりゃあウソだろう。寝てるんだろう!」と発し、記者会見の場で「(三波の亡骸を触ったときに)体がまだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて……。寄らば大樹の陰で、私などは彼のおかげでここまで来れた。(てんぷくトリオは)もう一人になってしまったんだなぁ……」と言いながら涙した。三波の亡骸が棺に納められる際には、妻の和子、長男の伸一と伊東によって、黒の紋付き袴が着せられた。 |
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| ----Wikipediaより転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 声優・鶴ひろみさん | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2017-11-16 ORICON NEWS 声優・鶴ひろみさん死去 事務所が正式発表 運転中に大動脈解離 『それいけ!アンパンマン』(日本テレビ)のドキンちゃん、『ドラゴンボール』(フジテレビ)ブルマの声で知られる声優・鶴ひろみさんが16日午後7時30分頃、大動脈解離のため亡くなった。57歳。所属事務所が17日、正式に発表した。 17日には、突然の訃報を受け、ばいきんまん役の中尾隆聖、バタコさん役の佐久間レイ、『ドラゴンボール』でベジータの声を務めた堀川りょうが所属事務所を通じてコメントを発表。 中尾は「あまりにも急なことで、とてもショックを受けております。30年間も一緒にやらせていただいたドキンちゃん。こんなことになるなんて、言葉が見つかりません」。堀川は「まさに青天の霹靂 とても信じられない! 彼女とは色々な作品でご一緒させてもらったので残念です。お悔やみ申し上げます」としのんだ。 |
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| 檀臣幸(だん・ともゆき)さん | 2013年10月 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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俳優で声優の檀臣幸(だん・ともゆき、本名・田中良雄)さんが10日午後11時49分、再発性大動脈乖離のため東京都新宿区の自宅で亡くなった。50歳だった。大阪府出身。 11日、所属する劇団青年座の公式サイトで発表された。 青年座研究所11期卒。1987年に劇団青年座に入団。舞台「ムーランルージュ」「千里眼の女」などに出演した。特撮ドラマ「仮面ライダーW」の井坂深紅郎やアニメ「機動戦士Vガンダム」のクロノクル・アシャー役、映画「ダークナイト ライジング」などの英俳優クリスチャン・ベール(39)の吹き替えなどで知られた。 11月30日に公開される「攻殻機動隊ARISE border:2」でも、イシカワ役として参加している。 妻は同じ劇団に所属し、声優としても活躍している女優の魏涼子(41)。など。 |
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| 三浦建太郎さん | 2021年5月 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ダーク・ファンタジー『ベルセルク』で知られる漫画家の三浦建太郎(みうら・けんたろう)さんが6日午後2時48分、急性大動脈解離で死去した。54歳だった。代表作「ベルセルク」は中世ヨーロッパを思わせる世界を舞台に、巨大な剣を振るう傭兵ようへいが、仲間の騎士団を滅ぼした暗黒の神々に復讐ふくしゅうする物語。細密で迫力あるアクション場面は、その後の漫画やアニメに多大な影響を与えた。 1989年に連載開始、92年からは漫画誌「ヤングアニマル」(白泉社)で連載されていたが、未完に終わった。単行本は既刊40巻。延べ20か国・地域で翻訳され、世界総発行部数(電子版含む)は5000万部以上。テレビアニメや劇場アニメ化、ゲーム化もされた。 その他の作品に「ギガントマキア」、原作とプロデュースを務めた「ドゥルアンキ」 ----読売新聞より転載 |
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| 渡辺英樹さん(左) | C-C-Bのリーダー 2015年7月 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「Romanticが止まらない」などのヒット曲で知られるバンド、C-C-Bのリーダーでベース担当、渡辺英樹(わたなべ・ひでき)さんが今月13日午後6時5分、急性大動脈解離による多臓器不全のため、都内の病院で亡くなっていたことが17日、分かった。55歳だった。東京都生まれ。グループのプロデューサー松木隆裕氏が文書で発表した。 C-C-Bは、6月14日の熊本から、同23日の東京まで5公演ツアーを始める予定だった。89年に解散した時の4人(渡辺さん、笠浩二、田口智治、米川英之)で実施予定も、渡辺さんが同12日夜に痛みを訴え、都内の病院に緊急搬送。大動脈解離と診断され、集中治療室に入った。一時は血圧が安定したが、今月13日に容体が急変。入院して1度も意識の戻ることのないまま、両親らにみとられて亡くなった。 |
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『ガウン姿で手を振った石原裕次郎 劇的だった生還までの129日間』 石原裕次郎奇跡の生還〈上〉 1981年(昭56)6月21日、入院中の東京・信濃町の慶応病院屋上で、ガウン姿の裕次郎さんがファンに手を振った。解離性大動脈瘤(りゅう)と闘った入院期間は同年春から夏の終わり。あまりに劇的な129日間を、日刊スポーツで振り返ります。 手術の成功率は3%、5%…日本中が祈った1981年 裕次郎さんが倒れたのは1981年4月25日。事実が公表されたのは3日後で、日刊スポーツは4月29日付の芸能面に「石原裕次郎が重体」の5段見出しで、次のように書き出している(年齢など当時)。 映画俳優・石原裕次郎(46)が、胸部動脈瘤破裂の疑いで、重体となった。28日、入院先の東京・信濃町の慶応病院で明らかになったもので、さる25日夕方、テレビ朝日のレギュラードラマ「西部警察」の撮影終了後、胸の痛みを訴え、救急車で隠密裏に同病院に入院していた。 発覚までの2日間、裕次郎さんがイベント出演をキャンセルするなどしたことから、水面下ではマスコミ各社が取材を開始していた。裕次郎さんが率いた石原プロモーションも患者名を「下山」と仮名を使うなどしたが、隠しきれない状況になると、番頭格の小林正彦専務が「絶対安静の状態で入院」と公表に踏み切った。ただし、「新聞記者が見つけたか」「酒は飲めるかな」など軽口がきけているとも説明した。 事態が深刻化して広がるのを避けたかった小林専務流の配慮だったろうが、面会できるのは元女優北原三枝の三枝夫人(当時の表記、本名石原まき子さん)と実兄の石原慎太郎衆院議員だけだった。その慎太郎氏も裕次郎さんの異変の知らせに、滞在先の小笠原諸島・父島から自衛隊機で厚木基地に降り立ったのが深刻さを物語った。公私混同との批判から、防衛庁長官(当時)が釈明する事態にもなった。当時の紙面に、慎太郎氏の秘書のコメントが掲載されている。「民間機を八方手を尽くして探したがなく、防衛庁に問い合わせたら、たまたま訓練飛行があったにすぎない。代議士は『とにかく死に目に会いたい』という気持ちでいっぱいのようでした」。 主治医で同病院の井上正心臓外科教授は、症状は小康状態でICUで推移を見守るとの方針を示した。急変して緊急手術したのは5月7日。翌8日付1面の書き出しは-。 耐えた、勝った、裕ちゃんの手術は成功! 胸部動脈瘤と闘う俳優石原裕次郎さん(46=本名同じ)は7日に容体急変。入院先の東京・信濃町の慶応病院で、同日午後3時40分から同10時13分まで6時間30分に及ぶ大手術に踏み切ったが、家族や関係者、全国の祈りが通じたのか。井上正胸部外科部長を筆頭とする15人の医師団の手で一応、危篤状態を脱出した。なお、合併症の発患など予断は許さないが、タフガイはその名の通り懸命に踏ん張った。 冷静に読めばかなり希望的な書き方で、新聞記事としては触れたことのない筆致だ。それだけ、裕次郎さんへの思いや願い、そして裕次郎さんなら病魔を一掃するだろうという熱気が、率直に伝わってくる。 3層ある血管の中膜が破れ、はがれた内膜の隙間に血液が流れ込む解離性大動脈瘤の手術は、動脈瘤の中でも、当時最も難しいとされた。この日の朝の検査で動脈の急速な膨張が見られ、破裂の恐れがあるため手術を準備。「先生、早くやりましょう」と、裕次郎さん自ら促したという。 総勢15人の医師団の中に、のちに宇宙飛行士となる向井千秋医師がいたことは、向井さんが宇宙飛行士に選ばれた13年後の紙面で紹介されている。手術を前に裕次郎さんと同じ血液型Aの献血者として石原プロの若手俳優ら20人が待機。長門裕之や二谷英明ら俳優仲間が「私もA型」と来院した。「太陽にほえろ」の「殿下」こと刑事役の小野寺昭は「僕はO型なんです」と悔やむ表情をサングラスで隠した。 この1面では午前7時に裕次郎さんが朝食にジュースを飲んだことをはじめに、午前9時に容体が急変し、緊迫していく様子を「ドキュメント」としてまとめている。裕次郎さんが三枝夫人、慎太郎氏、渡哲也、小林専務に「とにかくやってくる」と手を振って検査室に向かったのは午後1時20分。午後3時40分に手術開始。午後6時3分に女優高峰三枝子が出てきて「今日はお不動さまへお参りに言ってきました」と涙声。同15分に慎太郎氏がエレベーター前で「大手術だが生きて手術室から出てくれば大丈夫とのこと」と1度病院を離れた。 そして、午後10時13分に手術終了したことを報告をする会見が始まったのが午後11時15分。小林専務が「4、5日は危険な状態が続く」と説明すると同席した渡が「手術は成功したが、まだ危険な状態なので私としては『がんばってください』と言ってあげたいです。ここまでこれたことさえ奇跡だと思う」と締めくくった。 手術の成功率は後日談として3%とか5%などと報じられた。三枝夫人には10%と知らされたという記事もある。術式の詳細は省略するが、この日の紙面では再び病院に入った慎太郎氏のコメントが最も端的だった。 実兄・石原慎太郎氏の話(緊張した表情の中にも、安どの色を見せながら)大きなヤマを越えた。これから迎える合併症が問題だ。手術は心臓を冷凍にし、人工心臓を使って行われた。人工血管は使わなかった。心臓はもとに戻って、自分の力で動いているようだ。医師のいうところでは手術は予定通り行われた。明日(8日)の朝、麻酔から覚めた後4、5日がヤマだ。 入院から2週間。裕次郎さんが屋上に立つのは1カ月以上先だった。次回で紹介するが、裕次郎さんの様子は日々、石原プロや林教授らを通じて報道で知らされたが、当時は語られなかった壮絶な日々もあった。1996年(平8)7月21日付の本紙「日曜日のヒーロー」は裕次郎さんとの思い出を私小説にまとめた「弟」を出版した直後の慎太郎氏をインタビューしている。その一部を抜粋する。 「弟」の執筆中慎太郎氏は、まき子夫人と石原プロモーションの「番頭」小林正彦専務と会い、病気と闘っていたころの裕次郎さんの思い出を語り合った。「感動したのはねえ、コマサ(小林専務)が話してくれたんだが、渡(哲也)がね、裕さんを自分の責任で殺すっていったというんですよ」。1981年(昭56)の成功確率5%の解離性大動脈瘤の手術の直後、裕次郎さんは夜ごと小林専務や渡を呼んで「アラン・ドロンと契約するためにフランスへ飛べ」など、妄想とも思われる言動を繰り返した。このままの状態で「俳優・裕次郎」を世間の目にさらすことが、渡には耐えられなかったようだ。 「渡がコマサに言ったそうなんだ。『俺は社長(裕次郎さん)と同じ役者だ。役者にしか分からないことがある』ってね。世間にさらすわけにはいかない。裕さんの命は渡が、渡の命を代償にして預かる、始末するっていうわけだよ。すごいよ。結局、弟の意識が元に戻ったから良かったんだけどね。とにかく弟の周りには懸命に思ってくれる人間がたくさんいる」。 裕次郎さんと支える人たちの命懸けの日々だった。そして、心配したのは肉親だけではない。各記者が当時の裏話を振り返る記事が掲載された5月24日付。 A記者 「ウチの社にも裕次郎さんの病気を治す祈祷師を紹介したいと読者から電話が来たけど、石原プロでも一番危なかった先月25日夜には、千葉から祈祷師を呼んで病院中庭で祈祷させたらしい。自薦組を含めこれまで30人にのぼる」 B記者 「一時は「社長は石原プロのシンボルだから生きてさえくれればそれでいい」という社員の悲痛な声もあった。神にもすがる気持ちだったのだろう」 C記者 「ボクは成城の新築の豪邸を見てきたけど、なんとしてもこのウチに返してあげたいなあとホロリとしましたね」 一般人も社員も記者も、裕次郎さんに生きて欲しかった。(つづく) 石原裕次郎奇跡の生還〈中〉 病院に激励電話殺到、特設窓口に見舞い品山盛り 「タフガイ勝った」と6時間33分の大手術を報じられた俳優石原裕次郎さん。映画、ドラマで残した作品とともに、人生そのものが劇的でドラマチックだった。手術当日の東京・慶応病院には500人の報道陣が集まり、テレビカメラは41台を数えた。空前の裕ちゃん報道は、日刊スポーツのスクープ写真や、あの屋上の名場面へとつながっていく。 1981年(昭56)5月7日、裕次郎さんの解離性大動脈瘤の緊急手術が発表されると、入院先の東京・信濃町の慶応病院に続々と人が集まり始めた。翌8日付の芸能面によると集まった報道陣は500人。テレビ東京を除く民放の各局が午前中と午後にワイドショーを生放送していた時代で、番組ごとにスタッフを派遣しているため、TBSだけでもカメラ9台で、40台が病院内を右往左往していたとしている。ラジオは24時間リポートできる態勢で、スタッフを常駐させた。 裕次郎さんはそれまでにも肺結核や舌下潰瘍で同病院に入院したが、当時は報道陣も二十数人ほどで、同病院の秘書課長(当時)によると「こんなに大勢集まったのは、大正6年に開院以来」とのコメントが掲載されている。同病院の外来患者数は当時も今も1日平均3000人。そこに、機材を抱えたマスコミが集まるから、「騒動が大きくなって、患者に影響を与えねば」と心配する来院者の声も紹介されている。駐車場に入りきれない報道陣の車列が病院外にはみだし、四谷警察署が深夜まで巡回した。裕次郎さんを心配するファンの「がんばるように言ってくれ」という電話は交換室が対応した。多いときで150本。40年前の騒動とはいえ、病院スタッフにはただただ頭が下げるばかりだ。 裕次郎さんは手術から一夜明けた5月8日に意識を取り戻した。 かつて女優北原三枝として活躍した三枝夫人(本名・石原まき子さん)が全国のファンにお礼する形で、会見した。カメラの前に三枝夫人が立つのは、15年ぶりだった。連日病院に泊まり込んでいるため、長い髪を三つ編みにして、カーディガンにジーンズという軽装が緊迫の日々を物語った。まだ麻酔が切れていなかったので、会話こそできていなかった。それでも「入院時のことを思えば、この日が来たことが信じられません…」「よく頑張ってくれました。と、そのひと言を言ってあげたい。本当にがんばってくれましたもの」と語った。 「戸板に乗った、傷だらけのさむらいみたいだった。目の下に大きなクマができ、大手術のあとを物語っていた。看護師さんに手を挙げて、氷を口の中に入れてもらっていた。本人は話をしたいようだけど、人工呼吸器を使っているためしゃべれない。紙と鉛筆で会話をすると、『手術いつ?』と漢字でしっかりした字で書いた。まだ本人はこれから手術すると思っているのかもしれない」。 その日から病院の一角にテントが立てられた。石原プロモーションが、裕次郎さんを心配して全国からやってくるファンからの千羽鶴やお見舞いの品を預かる窓口などに使われた。同年5月24日付の日刊スポーツによると、テントを撤去した5月23日まで16日間に、千羽鶴2000羽、ぬいぐるみ2000体、花束5000束、手紙5000通が集まった。石原プロはこれを所属俳優だった峰竜太ら30人で4・5トン車1台と2トン車1台に積み込み、東京・調布の本社社屋に運び込んだ。テントにもファンによるメッセージが油性ペンで書き込まれていた。テントはレンタルの品だったが、退院後は裕次郎さんが買い取り、引き取った。 手術後、主治医で慶応病院の井上正教授の慎重な判断もあり、ゆっくり療養していた裕次郎さんは5月14日に集中治療室(ICU)から特別個室に写った。翌15日にそれが発表されると、日刊スポーツ橘信男カメラマンは目星をつけていた病室にそっとレンズを向けた。現像してみると裕次郎さんがベッドで寝ていた。「カメラが捕らえた特別個室」の見出しで報じた写真説明は--。 病床の裕ちゃんを本紙カメラがとらえた!! 15日午後7時10分ごろ、東京・信濃町の慶応病院中央棟4階の特別個室で、裕ちゃんはベッドに横たわっていた。まだ酸素吸入用のチューブ2本ついていたが、顔色は思ったより良かった。回復までもう一息だ、裕ちゃんガンバレ! これにより、ライバル社のカメラマンが巻き返そうとするのだが、石原プロも丸見えはよくないだろうと、窓ガラスの内側から薄茶色のカーテンを張って見えなくした。ただし、病室からは外の様子が見えたそうで、裕次郎さんはカメラマンを見つけては、手を振ったりしてポーズをとる気配りがあったという。 療養生活はゆっくり続いた。回復ごとに紙面スペースも小さくなっていくのだが、その内容は日々の順調ぶりをうかがわせた。 病室前のナースステーションまで1人で歩く(5月25日付)。写真雑誌「毎日グラフ」が報じる手術時の大騒動の写真を見て「へえ、すごいなあ」と人ごとのように感心(5月26日付)。入院後初めてせっけんで男性の大事なシンボルを洗う(5月31日付)。病室で週刊プレーボーイの人生相談連載で仕事を再開(6月16日付)。 そして、6月21日を迎える。三枝夫人、渡哲也を伴って、同病院1号棟屋上に現れた。石原プロは事前に「撮影会」として告知していた。混乱を避けるため、病院内に入るのは各社記者1人、カメラマン1人に制限するよう申し入れた。 日刊スポーツのカメラマンは病院の中庭に1人、840ミリのレンズを構え、2人目は信濃町駅ビル屋上で1200ミリレンズを持った。空撮は禁止されたが、毎日新聞、日本テレビ、フジテレビがヘリコプターを飛ばし、さらにフジは病院脇に巨大クレーン車を置き、カメラマン3人をつり上げ、屋上を狙った。 日刊スポーツは意外にも1面で報じることなく、芸能面1枚に収容していた。しかし、それまでと大きく違うのは、その日は署名記事になっていた。日刊スポーツの芸能記者は当時、インタビュー記事かコラム以外は署名を入れなかった。スクープ合戦が激しい時代だった。先輩記者からはライバル社に、記者の動きを悟られないための措置だと教えられた。今は記者と会社の責任として署名入りを推奨しているが、署名がないのが芸能記者の誇りでもあった。特に、裕次郎さんの報道は複数の記者が連携して取材したので、無署名だったのだろうと思っていた。 この日、原稿を書いたのは谷口源美記者だった。当時すでに映画担当の大ベテランで、多くの俳優や映画関係者からの信頼は絶大だった。その記事を抜粋すると--。 裕次郎さんの興奮ぶりと、長い交流があるからこそ分かる術前と術後の変化が伝わってくる。2006年(平18)に亡くなった谷口記者のことを私が書くのはおこがましいのだが、小柄でゴムまりのようなスタイルで、いつも険しい表情をした女性だった。仕事に厳しく、上司や同僚にはっきり物を言い、映画を愛した。だから、映画スターもスタッフからも信頼が厚い。谷口記者にとって裕次郎さんが重体に陥ってからの日々は、つらく眠れぬ日々だったろう。取材する後輩記者たちには的確な指示を飛ばし続けた。だからこそ、手を振る裕次郎さんにジーンときたのだろう。 もっとも、谷口記者の底力は約2カ月後、夏の終わりに発揮される。(つづく) 石原裕次郎奇跡の生還〈下〉 ファンへの感謝 酒タバコ 今後の俳優業 成功率3%とも5%とも言われた解離性動脈瘤の手術から回復に向かった石原裕次郎さんは1981年(昭56)9月1日に退院して、東京・成城に新築したばかりの自宅に戻った。退院直前には記者会見も開いたが、日刊スポーツには3日間連続で独占手記を掲載。裕次郎さんの闘病秘話と決意がつづられた。 東京・信濃町の慶応病院の屋上から全国のファンに手を振った名場面から9日後の6月30日、裕次郎さんは特別個室から一般病室に移った。さらに10日後、屋上で上半身裸で日光浴する姿がフジテレビのワイドショー「3時のあなた」で放送された。日刊スポーツはこの模様を翌11日の紙面で紹介している。終始ご機嫌な様子で、カメラを向けられると「グロテスクだよ」と言って、手で隠していた胸の手術跡を覆うばんそうこうは長さ30センチに及んだ。フジのスタッフが張り込んで撮影したというスクープ映像だが、日刊スポーツのネガ庫にも当日、橘信男カメラマンが撮影した写真が残されていた。病院内にいたことをあえて伏せるような配慮があったようだ。 8月22日の検査にも問題なく、26日に退院の日程が発表された。前々日、慶応病院の1階ロビーで記者会見した。ジーンズに白シャツ姿、体重は入院前より7キロ減って73・8キロ。拍手で迎えられると「ヨッ!」と軽く頭を下げた。「長い入院生活でしたが…」の問いに「4カ月もの入院生活だったが、意外と短く感じた。長期の外国ロケに行って、そこでケガして家に帰るような感じだね」などと答えた。体調を考慮して10分ほどで終わった会見後、裕次郎さんの血圧は70-140。記事には「問題なしだった」との記述があった。 裕次郎さんは6年後の7月17日、肝臓がんのため慶応病院で息を引き取った。52歳の若さだった。もう奇跡は起きなかった。慎太郎さんには後悔があった。 |
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